さよなら、特盛牛丼。

「ご注文は?」

「牛丼特盛で。」

小学生の頃から今に至るまで、幾度となく繰り返してきたやりとりである。

なぜ人は、特盛を頼んでしまうのだろうか。

思えば、いつだって僕が食べてきた牛丼は特盛だ。

夕飯に家族で食べたあの日も、体育で疲れ、友達と放課後に牛丼屋に行ったあの日も、夏にイベントに参加し、疲れた体に染み渡るおろしポン酢牛丼に本気で涙を流したあの時も。

いつだって僕の牛丼は特盛だった。

なぜ特盛なのか?

理由はただ一つ。「ちょうどいい」のだ。

育ち盛りの中高生時代。並盛りなんて選択肢は論外だ。大盛りでも足りない。特盛がちょうどいい。なんであんなにちょうどいいのか担当者に小1時間問い詰めたいくらいには特盛がちょうどいい。

とにかく牛丼は特盛なのだ。「ちょうどいい」のだ。

ロミオにはジュリエット。貫一にはお宮。牛丼には特盛。

ただそれだけのことだ。

だけど、悲劇はいつだって僕の背後からやってくる。いや、正確には背中じゃなくてお腹。

そう、太ったのだ。

運動部にも入らず、学校に遅刻しないためのダッシュしか日々のワークアウトがない人間にとって、特盛の牛丼はただの脂肪増加剤でしかない。

でも、牛丼は特盛だった。それは常識だった。進一といえば森。黒いサングラスといえばタモリ。牛丼は特盛。

それだけのことだった。

時は流れ、大学生になった。相変わらず太っていたが、外食の機会が増え、運動をする機会はさらに減り、いつの間にか体重はかなり増えていた。

ダイエットをしようと思っても、どうしても外食が多くて太っていく。

大学のジムも入会したが、ほとんど行かずに金を無駄にした。

脂肪を金で買い、自己肯定感を下げる毎日。

いつの間にか成人し、夏が過ぎ、秋を越え、痩せられぬまま冬を迎えた。

サークルでは幹事長になり、インターン先であるハフポスト日本版でも記事を書かせてもらえることになり、とても心は充実していた。

心の充実は、脂肪の充実でもある。根性なしの僕は、現状に満足すると努力を怠る。

お腹がそんなに空いてないのに入る牛丼屋。選ぶのは特盛。続く怠惰な日々。

いつの間にか大学の秋学期も終わり、気づけば桜咲く4月。

新型コロナウイルスの拡大で、3月末からインターンは在宅勤務。

サークルは活動自粛。大学は春休み。家から出る用事がない。

結果はわかるであろう。さらに太った。

そんなある日。終電が終わり、町が眠りにつく時間。

お腹が減った。異常にお腹が減った。

胃の中の食べ物を探し回る音は電気信号へと変わり、僕の脳にたどり着いて一つの発想をもたらした。

「そういえば最近あいつを食べていない…」

そう、特盛だ。

深夜に食べる牛丼は最高だ。客も少ないため、玉ねぎがよく煮込まれて美味いことが多いし、深夜のワクワク感と罪悪感の入り混じった感情は最高のスパイスになる

静まり返った地元の町。不要不急の外出。

まだ緊急事態宣言は出ていなかったが、緊急だろうとそうじゃなかろうと、午前2時の外出は基本的に不要だ。

家を出る。食欲に負けた醜い男の足音だけが商店街に響き渡る。

深夜の町は不思議な雰囲気に包まれていて、「後ろから魔物が襲ってきたらどうするか」みたいな、いらない妄想をさせられることが多い。

もちろんどれだけ警戒しても魔物は現れず牛丼屋の灯りはすぐに見えてきた。

ささやかな冒険譚を終えた僕は店に入り、テイクアウトの注文コーナーへ歩く。

本当なら店のどんぶりで食べたかったがこのご時世。

徒にリスクをあげないためにもテイクアウトにするしかなかった。

幸い店の注文はタッチパネル式。支払いも現金を機械に投入する形だったので店員との接触は商品の受け渡しの時だけだった。

家に帰り袋を開ける。中から姿を現したのはもちろん、

特盛牛丼だ。

蓋を開け、紅生姜をこんもりと載せる。最後に卵を落とせば完成。

世の中には美味しい食べ物が無限にある。だが、結局一番美味しいのはこれだ。

幸せはいつだって手の届く場所にあるのに、人はそれに気づかない。

牛丼を掻き込む。「ジャンク」という言葉と、米粒とが混ざったもので口の中がいっぱいになる。その瞬間、脳みそから刺激的かつ甘美な液体がとろけて溢れる。

掻き込み、掻き込み、掻き込み、卵と絡めて、飲み干す。

幸せな時は長く続くとは限らない。不意に終わってしまうことも、人は忘れがちだ。

食後、数分経つと心を覆う罪悪感の闇。

なんでこんなに食べてしまったんだろう。

並盛りでよかった。せめて大盛りにしておけばよかった。

また脂肪を金で買ってしまった。

特盛牛丼は最高だ。

でも最高なのはほんの一瞬だけ。

最後の方は、惰性で食べていることも多い。

後から襲う罪悪感も特盛だ。

「もうやめよう」

何度思っただろうか。

でも、気づいたら僕は牛丼屋にたどり着いている。

たいしてお腹が空いていないのに、蜜の香りに誘われた蝶、いやむしろ蛍光灯に集まる蛾のように、たれの甘辛い匂いがする牛丼屋の中へと誘われて行く。

でも、もう終わりだ。

大学3年になり、これから就活も始まる。今が自分を律する最後のチャンスだろう。

牛丼は特盛

誰がそんなこと決めたんだ。

みんな並盛り食べてるぞ。

だいたい安さが売りの牛丼屋でなんで特盛食べるんだ。

時は満ちた。常識を打ち破れ。

長年連れ添った友と今、決別する。

さよなら、特盛牛丼。

いつだって僕のそばにいてくれた。血となり肉となり脂肪となってくれた。

さよなら、特盛牛丼。

君のいない世界は少しさみしいけれど、きっといつかまた会える。

特盛を食べても全く問題ない基礎代謝を誇るバキバキボディを手に入れたその日、僕はまた君に会いに行くだろう。

そんな日が来ることを信じて─。

  

おわり

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